
諫山創による漫画『進撃の巨人』は、2009年から2021年まで約12年間にわたり『別冊少年マガジン』で連載され、世界累計発行部数1億4,000万部を超える一大作品となった。その影響力は日本国内に留まらず、アニメ化を通じて世界規模の現象へと拡張していった。
私は原作漫画を未読のまま、TVアニメ全94話を視聴した。物語はあまりにも長大で、連日画面に向き合う生活を続けるうち、気づけば精神的にも肉体的にもかなり疲弊していた。それでも視聴をやめられなかったのは、本作が単なる娯楽の枠を超え、観る者に思考を強いる力を持っていたからだろう。
第59話において、パラディ島を脅かしてきた巨人たちは一掃され、束の間の平和が訪れる。この時、私は物語が一つの終着点に達したのだと早合点した。しかし実際には、そこからこそが『進撃の巨人』の核心を描く「本当の始まり」だった。
舞台はマーレへと移り、それまで一貫して被害者として描かれてきたエルディア人は、加害者の立場に置かれる。そして主人公エレン・イェーガーは、いつの間にか「守る者」から「壊す者」へと変貌していく。この急激な価値観の転倒に戸惑い、60話以降で視聴を断念した人が少なくなかったという話も、今となっては理解できる。
正直に言えば、私自身も何度となく視聴をやめようとした。あまりにも多くの死が描かれ、正義の名の下に振るわれる暴力が執拗に反復される。その現実性は、フィクションであるがゆえに薄まるどころか、かえって生々しい不快感を伴って迫ってきた。しかし、未だ明かされていない巨人の謎を前に、物語を放棄する決断もできず、惰性と好奇心の間で揺れ動きながら視聴し続けることになった。
また九つの巨人の継承者が容易には死なない点や、過去を何度も振り返る回想構成には苛立ちを覚えたのも事実である。ただ、こうした手法は『鬼滅の刃』など近年の作品にも見られる傾向であり、現代の大衆向け物語が選択している一つの様式なのだろう。
それでも最終話まで辿り着いた今、本作が投げかけた問いは確かに心の奥に残った。「自由とは何か」「戦争はなぜ終わらないのか」「人間はどこまで残酷になれるのか」。分かりやすく読み解けば、“巨人”とは核兵器の恐怖の象徴であり、壁の向こう側を知りたいと願う衝動は、人間の際限ない欲望を表しているとも解釈できる。
敵を憎むことは容易い。しかし、敵の背景を理解することは驚くほど難しい。立場が変われば正義は容易に反転し、昨日の英雄は今日の悪となる。その現実を、『進撃の巨人』は一切の逃げ道を与えず突きつけてくる。
相互理解こそが争いを回避する第一歩であることは、誰もが知っている。だが現実には、人間は恐怖と欲望に翻弄され、短絡的な選択を繰り返してしまう存在なのだろう。そもそも巨人が存在せず、壁の外に過剰な関心を抱かなければ、この長期にわたる惨劇は起こらなかったはずだ。
だからこそ本作は、真の平和や安らぎを求めるならば、「ありふれた小さな幸せ」を大切にするしかないのだと、静かに語りかけているように思える。
『進撃の巨人』は、決して観る者を安易に楽しませる作品ではない。疲労や不快感を伴いながら、それでも思索を手放すことを許さない、重く、厄介で、しかし忘れがたい作品であった。
なお、劇場版の実写映画については、TVアニメとは切り離して評価すべきだろう。94話に及ぶ物語を一本の映画に収めることが不可能である以上、省略や改変は避けられない。10年前の邦画特撮として見れば、映像面には相応の努力が感じられ、過度な酷評は必ずしも公平とは言えないだろう。
評:蔵研人
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